板絵油彩の部屋

笑童子工房

西方の油と東方の水の文化

我が国に西方の「油彩技法」がもたらされて150年余。私は、独特の匂いと物珍しさもあって、油絵の具を手にしてしまったが、何となく性に合わない。画布の織り目、太い絵筆、描法も…何もかもが手に馴染めない。やはり自分には墨や水彩といった素材が合う。東洋伝統の「水の文化」とでも言おうか。さりとて、田舎で日本画を習得する術もない。さて、どうするねぇ。
油彩を水彩のように使えないだろうか。そう思った時、15世紀の画家フラ・アンジェリコの聖画を思い出した。板を金泥で下塗りして描いた輝くばかりの絵である。試みに「科材」合板をエナメルの金でつぶし、磨いて、油絵具を薄く溶く。和刷毛と面相筆…描けるじゃぁないか。面相の滑りも良く、秋風になびく薄の穂波も描ける。まさに日本画の手法に近い感覚である。加えて薄い絵具の塗膜面を透かし、下地の金が外光に微妙に反射して、画面を独特の色合いに見せるではないか。背景に箔を置いた「琳派」の工夫も思い出される。
それにしても、なべてグローバル世界となっても、ひとはやはり風土に培われる生きものだ。西方の物を東方の手法で。私は「水の文化圏の住人」なのだなとつくづく思う。併せて日本古来の屏風や絵巻物に見られる「等置法」とでも呼ぶ、独特の不可思議な描画法にも惹かれる。先人たちは、「遠くのモノが小さく見える」ということを、知らなかったわけではあるまい。幾度か絵巻に挑戦してみたが、「西洋式遠近法」に引きずられ、挫折した。風土が培うものは、理屈では如何ともなし難いものが多い。いまだに解けないまま、ゴロリと横たわる「謎」である。

西方の油と東方の水の文化

我が国に西方の「油彩技法」がもたらされて150年余。私は、独特の匂いと物珍しさもあって、油絵の具を手にしてしまったが、何となく性に合わない。画布の織り目、太い絵筆、描法も…何もかもが手に馴染めない。やはり自分には墨や水彩といった素材が合う。東洋伝統の「水の文化」とでも言おうか。さりとて、田舎で日本画を習得する術もない。さて、どうするねぇ。
油彩を水彩のように使えないだろうか。そう思った時、15世紀の画家フラ・アンジェリコの聖画を思い出した。板を金泥で下塗りして描いた輝くばかりの絵である。試みに「科材」合板をエナメルの金でつぶし、磨いて、油絵具を薄く溶く。和刷毛と面相筆…描けるじゃぁないか。面相の滑りも良く、秋風になびく薄の穂波も描ける。まさに日本画の手法に近い感覚である。加えて薄い絵具の塗膜面を透かし、下地の金が外光に微妙に反射して、画面を独特の色合いに見せるではないか。背景に箔を置いた「琳派」の工夫も思い出される。
それにしても、なべてグローバル世界となっても、ひとはやはり風土に培われる生きものだ。西方の物を東方の手法で。私は「水の文化圏の住人」なのだなとつくづく思う。併せて日本古来の屏風や絵巻物に見られる「等置法」とでも呼ぶ、独特の不可思議な描画法にも惹かれる。先人たちは、「遠くのモノが小さく見える」ということを、知らなかったわけではあるまい。幾度か絵巻に挑戦してみたが、「西洋式遠近法」に引きずられ、挫折した。風土が培うものは、理屈では如何ともなし難いものが多い。いまだに解けないまま、ゴロリと横たわる「謎」である。

兎うさぎ

兎は、いきものの中でも臆病者とされている。飼ってみるとなるほど、体調悪い時でもそれを悟られまいとする。だが、根は意外と頑固者で勁い。いざとなると「窮鼠猫を嚙む」さながらに、意表を突く反応を見せる。旅の道中の飢えた神に、火を焚きその中に飛び込み、我が身を焼いて持て成した。神はその行為を哀れみて、兔を「月を永遠の棲家」として与えた。そんな逸話もある。
なるほどねぇ、と月を見上げる。たしかに居るではないか「永遠の兔」よ。私には太陽は眩しすぎる。どちらかと言えば「太陽族」ではなく、「月族」であるらしい。画題も「月」や「兔」類ばかり、色彩も淡調。ということは、本質的には「臆病者」なのだろうなぁ。だから「月や兔」を描くのだろう。
世間を歩くと、ひと様から「コイツはおとなしくて組みしやすい」と思われることも多い。強要されれば先ずは一歩引く。二歩三歩と引く。「引くは恥に非ず」と思うから。だが、ここぞとばかり極まれば、「噛むよ」ガッツン!とね…それが、兔に倣うた処世術。嗚呼、今夜も月が美しいねぇ。

兎うさぎ

兎は、いきものの中でも臆病者とされている。飼ってみるとなるほど、体調悪い時でもそれを悟られまいとする。だが、根は意外と頑固者で勁い。いざとなると「窮鼠猫を嚙む」さながらに、意表を突く反応を見せる。旅の道中の飢えた神に、火を焚きその中に飛び込み、我が身を焼いて持て成した。神はその行為を哀れみて、兔を「月を永遠の棲家」として与えた。そんな逸話もある。
なるほどねぇ、と月を見上げる。たしかに居るではないか「永遠の兔」よ。私には太陽は眩しすぎる。どちらかと言えば「太陽族」ではなく、「月族」であるらしい。画題も「月」や「兔」類ばかり、色彩も淡調。ということは、本質的には「臆病者」なのだろうなぁ。だから「月や兔」を描くのだろう。
世間を歩くと、ひと様から「コイツはおとなしくて組みしやすい」と思われることも多い。強要されれば先ずは一歩引く。二歩三歩と引く。「引くは恥に非ず」と思うから。だが、ここぞとばかり極まれば、「噛むよ」ガッツン!とね…それが、兔に倣うた処世術。嗚呼、今夜も月が美しいねぇ。

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