笑童子

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笑童子のいる道

我が故郷は、薩摩半島の中ほど。山また山奥の戸数七軒の集落。俄然「八墓村」めいてくるが、古老の話では、関ヶ原の敗北で「日向」を追われ薩摩半島へ逃れた …来ては見たが、平地は旧来の持ち主が有りで、陣笠郷士たちは、仕方なく谷に分け入り開拓したという。何事にも「結」で当たる、結束の強い一族であった。「贅沢」を知らねば「貧乏」もない。何もない谷間ではあったが、私には、まさに「桃花源」であった。
学校は嫌いで、山羊と遊ぶほうが好きだったが、なしてか「行かねばならぬ」らし。麓まで一時間余まりを、杣道をひたすら下る。橋は麓にひとつだから、川向こうの県道を横目に棚田の道を歩く。棚田道の中ほどにひねこびた松が三本あり。それを潜る時、必ず「クッククッ」と子供の笑う聲、見回せど姿はない。初めこそ気味悪かったが、やがて、登下校の私の密やかな楽しみになった。誰にも語らず。母にだけ話すと。「あぁ、そりゃ笑童子じゃ」。聴こえる者と聴こえない者とがおる。「あれが聞こえるとは、お前は幸せ者よ」…と母はなぜか満足気に笑った。
後で知ったことだが、棚田道の三本松付近一帯は、「弥生時代の集落跡」で、耕地整理の折りに出土発掘したらし。今は松も伐られ、アスファルトの農道を軽トラの兄ちゃんが驀進。小僧の笑い聲も消えた。今でも、時折ふいと「クッククッ」と弥生小僧の笑い聲が聴こえる。お伽草子めいた話ではあるが、あの「笑童子の聲」は、私の創作の「原点」なのかもしれないと思う。なぁ、弥生小僧よ。

笑童子のいる道

我が故郷は、薩摩半島の中ほど。山また山奥の戸数七軒の集落。俄然「八墓村」めいてくるが、古老の話では、関ヶ原の敗北で「日向」を追われ薩摩半島へ逃れた …来ては見たが、平地は旧来の持ち主が有りで、陣笠郷士たちは、仕方なく谷に分け入り開拓したという。何事にも「結」で当たる、結束の強い一族であった。「贅沢」を知らねば「貧乏」もない。何もない谷間ではあったが、私には、まさに「桃花源」であった。
学校は嫌いで、山羊と遊ぶほうが好きだったが、なしてか「行かねばならぬ」らし。麓まで一時間余まりを、杣道をひたすら下る。橋は麓にひとつだから、川向こうの県道を横目に棚田の道を歩く。棚田道の中ほどにひねこびた松が三本あり。それを潜る時、必ず「クッククッ」と子供の笑う聲、見回せど姿はない。初めこそ気味悪かったが、やがて、登下校の私の密やかな楽しみになった。誰にも語らず。母にだけ話すと。「あぁ、そりゃ笑童子じゃ」。聴こえる者と聴こえない者とがおる。「あれが聞こえるとは、お前は幸せ者よ」…と母はなぜか満足気に笑った。
後で知ったことだが、棚田道の三本松付近一帯は、「弥生時代の集落跡」で、耕地整理の折りに出土発掘したらし。今は松も伐られ、アスファルトの農道を軽トラの兄ちゃんが驀進。小僧の笑い聲も消えた。今でも、時折ふいと「クッククッ」と弥生小僧の笑い聲が聴こえる。お伽草子めいた話ではあるが、あの「笑童子の聲」は、私の創作の「原点」なのかもしれないと思う。なぁ、弥生小僧よ。

鍋倉孝二郎=笑童子工房主人

鍋倉孝二郎 1942-

故郷遥かなり…まるで明治の尻尾を引きずったような山奥での「幼年時代」。ランプの灯り、月明かり、闇に舞う蛍、棚田を駆け上がる風、蜜蜂の羽音…まさに、時計のない「黄金時代」であった。が、何もなにも長くは続かない。十代の初めに、運悪く崖崩れに遭い生き埋めに…からくも拾う九死に一生。だがさ、否も応もない。右足と引き換えという条件付きであった。
十五、十六、十七とアタシの人生暗かったぁ。誰にも語れぬ憂鬱は、見知らぬ街の、路地の雑踏の闇にしか語れない。というわけで、母の嘆きも聞かばこそ、郷里を捨てて「東京遁走曲」…。小さなデザイン工房に潜り込み、そこで寝泊まり。終業時間を待ちかねて、築地・銀座の裏路地を徘徊。唯一の友達は詩集と画帳、小さな喫茶店で珈琲一杯のみで粘る心の居場所。もう一つの儀式は三流の映画館。雨降るくたびれた銀幕の向こうの人生模様。唐突に「FIN」で閉じるフランス映画は、あの時期の屈託した気分にピタリと嵌る大事なピース。
それから職場を幾つも転々として、デザイン、編集、コンサル、果ては映像まで…何でも屋。どんなに忙しくとも、その傍ら「絵筆」だけはお不動様。思いまするに満ち足りたひとは、売れもせぬ絵なんぞ描かない。絵とか詩などというものは、欠けたる人生パズルのピース探しの如きもの。「己が耳を切り取って送りつける」画家ゴッホみたいな勇気は持たぬ。臆病な私にとっては、「歩くための杖」であった。こう言えば、芸術至上主義連のお叱り受けるやも知れぬが、馬骨の言、取るに足らずと流し給え。それにつけても、切り取った「「ゴッホ」の耳の宛先は、飾り窓の女性と伝えられる。その受取人の「女心と贈り物」の行方は如何に…気になるよねぇ。

鍋倉孝二郎=笑童子工房主人

鍋倉孝二郎 1942-

故郷遥かなり…まるで明治の尻尾を引きずったような山奥での「幼年時代」。ランプの灯り、月明かり、闇に舞う蛍、棚田を駆け上がる風、蜜蜂の羽音…まさに、時計のない「黄金時代」であった。が、何もなにも長くは続かない。十代の初めに、運悪く崖崩れに遭い生き埋めに…からくも拾う九死に一生。だがさ、否も応もない。右足と引き換えという条件付きであった。
十五、十六、十七とアタシの人生暗かったぁ。誰にも語れぬ憂鬱は、見知らぬ街の、路地の雑踏の闇にしか語れない。というわけで、母の嘆きも聞かばこそ、郷里を捨てて「東京遁走曲」…。小さなデザイン工房に潜り込み、そこで寝泊まり。終業時間を待ちかねて、築地・銀座の裏路地を徘徊。唯一の友達は詩集と画帳、小さな喫茶店で珈琲一杯のみで粘る心の居場所。もう一つの儀式は三流の映画館。雨降るくたびれた銀幕の向こうの人生模様。唐突に「FIN」で閉じるフランス映画は、あの時期の屈託した気分にピタリと嵌る大事なピース。
それから職場を幾つも転々として、デザイン、編集、コンサル、果ては映像まで…何でも屋。どんなに忙しくとも、その傍ら「絵筆」だけはお不動様。思いまするに満ち足りたひとは、売れもせぬ絵なんぞ描かない。絵とか詩などというものは、欠けたる人生パズルのピース探しの如きもの。「己が耳を切り取って送りつける」画家ゴッホみたいな勇気は持たぬ。臆病な私にとっては、「歩くための杖」であった。こう言えば、芸術至上主義連のお叱り受けるやも知れぬが、馬骨の言、取るに足らずと流し給え。それにつけても、切り取った「「ゴッホ」の耳の宛先は、飾り窓の女性と伝えられる。その受取人の「女心と贈り物」の行方は如何に…気になるよねぇ。